聴覚障害者授産施設づくり
「ろう学校教員」として人生の第1歩を踏み出した私は、聞こえない、そのために語れない子供たちの当時の教育の中で感じたのは、中学部を卒業しても特に手職にする技能も持たず卒業、社会に巣立つことであった。何としても仕事の道を聞かねば、と思っていた時、前理事長の藤川マキヱ先生(故人)に、札幌のろうあ学校の疎開先であった十勝管内清水町御影で、めぐりあったのである。私の願いに共感して下さり、先生の縁故者で新得町で木材工業を営む田村政雄氏の協力を受け、藤川先生、生後2カ月の長男をかかえた私の妻、ろう学校を卒業したばかりの教え子数人と新得に移ったのである。
わずかな貯えも底をつき、1日も早く正規の運営にと深夜まで語りあい、社会福祉法人の認可申請を提出した。しかし、数ヶ月たっても審査中とのことで音沙汰がない。
そこで昭和29年に上京し厚生省へ直訴、その後道関係者のはからいにより、翌30年6月厚生省の係官が来訪・視察され、ようやく同12月に社会福祉法人の認可を頂いたのである。申請中の北海道共同募金配分の40万円も決定し、ようやく木工授産施設の設備が整い、機能が動きだしてきたのであった。
この間、町内の製材工場からは、資材の寄贈を。また、委任措置費の受けられなかった頃、近くの雑貨店の支払いを店主が「支払える時で結構」とのこと言葉を頂いた事もあった。
身体障害者の中でも外見は、障害が見られないが、社会生活上、重要なコミュニケーションが果たせず、そのためあらゆる面に自立を拒まれて来た聴覚障害者のノーマライゼーションの足がかりとなる授産施設づくりの道は険しいものであった。
しかし、昭和28年以来、藤川先生をはじめ、恩師や先輩、同輩に恵まれ、地域社会を耕した福祉の中に、授産施設「わかふじ寮」も、また聴覚障害者としての自らも息づき、喜びと感謝をかみしめているのである。
「ひと粒の種子大地にあれば」 北海道の福祉1987
北海道社会福祉研究会編に掲載
聴覚言語障害センターをつくりたい
ただ今ご紹介を頂きました田中皎ーです。自分の話し声の程度がわかりませんので、大変聞きにくい言葉と思いますが、北海道の聴覚障害者を代表して発言の機会をいただきましたことを大変光栄に思っております。私は9歳まで聞こえていました。当時の話し声をたどり、思い出ををたどって話しますので大変聞きにくい言葉と思います。いろいろ考えます時に、同じ耳の聞こえない仲間と比べますと、私ははるかにしあわせだと思っています。今、全国では31万7千人、北海道ではl万8千人の耳の不自由な方がいます。このたくさんの方のために特殊教育もどんどんすすみ、またよきパートナーとしてのろうあ者生活相談員や手話通者が各地域に配置され、さらに途中で聞こえなくなられた方の為に手で書いて通訳するという奉仕者もふえて、コミュニケーションの問題も少しずつ解決されていることは大変うれしいことです。でも、私たちは共通の多くの未解決問題を抱えています。今、私が仲間の声なき声を発言させていただきますことは、口下手な私には非常に重い責任を感じるのです。
私が耳が聞こえなくなったのは、今から45年前です。そのころ、おし、つんぼ、という言葉が使われました。聞こえなくなった当時、それ故に私は一層自分を悲しく思いました。このようなさげすんだ言葉は、どんなに多くの障害者の胸を苦しめているかと思いましと、本当に肌寒く感じます。けれとも今の社会では、傷つけるような言葉が使われなくなったとこは、大変喜ばしいことと思います。
聴覚障害者が十分理解されないということは、聞こえる人の世界と聞こえない人の間の、コミュニケーションの壁があるということです。この社会生活で生きていくうえには、コミュニケーションがあって、これを失った場合、社会について行くことができません。今の社会で、人と人とのコミュニケーションは言葉による会話ですから、一般社会から受ける自動的な深い重みは、聴覚障害者のコミュニケーションという自分一人では解決できない、いい尽くせない社会のきびしい壁があることをわかってほしいと思います。
生まれて間もなく、すべての音からとざされた子どもたちやお母さまのやさしい子守唄も段々と遠くなり、かすかに音の響きを感じる子供たちの悩みや前途は、私どもは苦しくとも絶えることなく頑張らなくてはならないと思っております。早期発見、早期対策としての治療や、わずかでも残った能力の訓練や、適切な早期教育の必要などは申すまでもないと思います。このような問題を一つ一つ障害者自らの自覚と、これを取り巻く家庭や家族をはじめ、社会の理解と協力なしには、その解決と共にこの障害にまつわる暗い霧は払いきれないのではないでしょうか。
また、人生の半ばで不幸にも聴力を失った人や、言葉の発声の能力を失った人の対策についても、専門の治療やこの障害にかかるリハビリ施設、また聴力に障害を持った者が同じコミュニケーションの壁に向かって、手話や口話の訓練にはげみ、共通の悩みや問題を話し合い、障害を乗り越え、社会復帰を助けることのできる専門的な施設を設置する必要があるのではないでしょうか。私どもの団体、北海道ろうあ連盟では、今から10年も前から運動を続けています。
そして、公立の聴力言語障害者センターを北海道に、せめて1ヶ所設置を急いでほしいと願っています。このような重荷を負った人たちの血のにじむ絶叫にも似た願いを、この国際障害者年の対策に実現できるような、社会のご理解をいただきたいものと思っています。大変きびしい言葉と思いますが、本当にこれがかなえられずしては完全参加はほど遠く、永遠の願いがただ夢として終わらせたくないものと期待しているのです。
私は今、聞こえないハンディを不幸とは思っておりません。しかし、社会生活を送る上では不便です。たとえば、寮教育を終えて就職し、その職場での人間関係のむずかしさ、働いても働いても報われることの薄い差別の目が各所に残っておりますし、雇用面でもまだまだきびしいものです。結婚して子供を育てる親となって、自分が聞こえない、離せない悩みは大きくつきまといます。一方、病院や銀行などの日常生活や、さらにまた交通事故など不治の問題の解決などで、聴覚障害者の悩みは非常に幅広くわたっております。
私どもの、このような悩みを解決するのは、ろうあ者生活相談員であり、手話通訳者です。相談員については、昭和38年に私どもの団体のリーダー、先輩の方々が非常に骨を折られ、北海道では旭川市に初めておかれ、今は札幌市に7名おります。この他、6市には、ろうあ者生活相談員が6人、手話通訳者は市、道合わせて22人、それぞれ地域で大きな役割を果たしています。しかし、この専任の手話通訳者やろうあ者生活相談員は、特殊で地味な活動をしておりますが、その身分保証はうら寂しいものです。手話通訳者はその全神経を注いで耳で聞き、聞こえない人のために限られた手話で表現し、その意味を伝え、また話せない人の手話を見て一般の人に伝えるなど、とてもとても神経を使い疲労の多い勤めです。このような無理がたたり2年前から腕がしびれて肩が上がらなくなった、というような人が出てきています。関係当局に対し職業病としてお願いしましたが、今もって認められないという厳しい未解決の問題が残されています。私たちが頼りとする手話通訳者の苦しみは当然私たちの苦しみでもあるのです。社会に訴え続け、身分保障を制度化し、さらにこのような職業病に対する心配を拭い去るよう、今も北海道、全国の仲間たちと運動を広げています。
私たちは1人としては、本当に弱い人間です。けれども、支え合い助け合って希望に向かつて努力しております。理解深い雇用主のもとで光を見出して働く仲間もあります。札幌鉄道弘済会協力による聴視覚障害者の売店などは、雇用者と一般社会の理解に固まれて成功している1つの例といえるでしょう。
私の勤める新得町のわかふじ寮は昭和28年、全国に先がけて創立した聴覚障害者の木工授産施設ですが、地域の木材資源を生かし、木工の技術修得とあわせて地域の産業振興にはげませていただいています。
新得町では町長さんが先頭に立って、わかふじ寮の百余人の聴覚障害者のために手話を学ばれ、50年新得町で聞かれた第20回全道ろうあ者福祉大会では町民参加の大会となりました。また、5、6年にわたって掲げられていた聴覚障害者の養護老人ホーム早期建設のスローガンを理解して下さいました。
町をあげての壮大な援助と、北海道や道共同募金会などの幅広い支援を得て、昨年12月建物が竣工し、日本で2番目の聴覚障害者養護老人ホームが新得町に完成しました。4月から関所の予定で準備に励んでいます。これは、施設と地域社会の手話の語らいにはじまった、深く温かい心の絆が築いたものと深く感謝しております。
今後もコミュニケーションの壁を手話の語らいで、地域住民との心のつながりを一層親密にし、耳の不自由な若者から老人まで一環して共に喜び合える社会に奉仕し、住民に愛される施設を築いて行きたいと心しています。聴覚障害者老人ホームは新得町l地域のものではなく、全道のしあわせ薄い恵まれないろうあ者老人のため、国際障害者年の名にかけても育て上げたいと誓い合っています。
国際障害者年の完全参加は、社会の一層の理解なくしては望めないと思います。皆さまの一層のご理解とご支援をお願い申し上げます。手話通訳して下さいました方々にお礼を申し上げます。ご静聴ありがとうございました。
シンポジウム
主題障害者の「完全参加と平等」ははたして可能かでシンポジストとして発言された内容
当時北海道ろうあ連盟長
「北海道の福祉1981」北海道社会福祉研究会編北海道新聞社掲載